2020年04月

母はずーっと静かだった

私の母は 電車も通らない

県境の山奥の生まれだ 母の

生家から ずーっと眼下に

たびたび氾濫する川があり

ゴーゴーと音を立て続けている

氾濫をさけるため 生家は

ずいぶん高いところに建っていた

後ろは もう 山と竹藪で

ムカデは しょっちゅう見られた

夜になると わんさかと 大きな蛾

やら なにやら わけのわからない虫たち

が 電球の周りを 乱舞した

母は そんな生家から

山道を1時間半かけて 

歩いて小学校に通ったそうだ

そのためか 生涯 足腰は強かった

若い頃の母は

電気会社の事務員として働いた

その制服姿が残っているが

明るく楽しそうである


・・・


そんな母が22歳で見合い結婚をした

お相手は 私の父である

母の友人から紹介されたようである

お酒はたしなむ程度 ということであったが

結婚したら 一升瓶を空ける程の

飲んべえ だった

その前に 呉服屋との話もあったそうだが

父を選んだそうだ

呉服屋との縁談が進んでいたら

飲んべえで苦労することもなかった

と子供の頃に 一回だけ聞いたことがある

それでも父と結婚したことには 悔いは

無かったように 私は子供心に感じ取っていた

一時期は 同居する数人のお弟子さんの

お世話をしていた また時には

左官自営業の父の仕事を

母もほおかぶりをして

建設現場でお手伝いしたことがある

練ったモルタルをバケツに入れて

ロープを引っ張り滑車で上に運ぶのだ

夫婦で働くことができて 楽しそうだった

私もそこでお手伝いをした

今では 懐かしい思い出 である


・・・



お弟子さんたちもそれぞれ独立し

子供たちもそれぞれ独立した頃

妹が25歳 弟が30歳 私が32歳のとき

父が亡くなった

それから31年の間

母は 一人暮らしをしたのである



・・・



一人暮らしをしながらも

ガスメーターの検針の仕事で

歩き回り 足腰も元気だった

仕事も会社の慰安旅行も

楽しかったようである

しかし母は

かなりの偏食家だった

生もの 肉類は 決して口にしなかったし

海老天も 口にしなかった

焼いた鮭 卵焼き 豆腐

イチジク びわ トマト

など 果物野菜 

そして漬物くらいしか

副菜は食べなかった

正月や結婚式

祝宴での食卓に並ぶ

豪勢な食べ物には

手をつけないものだから

「ように 食べるもんがないのぉ」

と周りから よく言われたものである

そのためか

晩年は 骨粗鬆症となった

そして近くに住む弟が毎日注射をしに

母宅まで足繁く通ってくれたのである


・・・


そんな母は 85歳で亡くなった

老衰により 食事も受け付けなくなり

ホスピス病棟で 静かに息をひきとった

息を引きとる前の日には

子供たち孫たちみんな集まり 母を見舞った


・・・



亡くなった後

弟と二人で 母の住まいの整理をした

大切にしていたお人形やら何やら

一切合切 処分したのだ

整理の途中 押し入れの奥から

健康機器がでてきた

何のための機器か よくわからない代物

やたら押しボタンがつていてる電気機器

それが手つかずで しまってあった



・・・


一人暮らしのお年寄りは

健康への不安 日常的な寂しさから

また 同年代の友人から一緒に行こう

と誘われて 得体の知れない催事会場

へと 足を運ぶことがよく見受けられる


一年前私たちの住まいの

すぐ道の先の空き店舗に

その得体の知れない催事会場が

できたことがある


老人たちがお仲間同士で集まってきていた

毎日毎日

よく集まってくるものだなと思った

端から見ても詐欺っぽくて

夫婦でいぶかしく 通るたびに見ていた


そして三ヶ月後 その店舗は

一晩で跡形もなく消え去っていた


いわゆる催眠商法の会場だったのだ

閉め切った会場に人を集め

日用品などをタダ同然で配って

販売員が 思いやりのある言葉や

親切な態度で 楽しくおかしく

雰囲気を盛り上げた後

冷静な判断ができなくなった高齢者に

高額な商品を契約させる手口の販売だ


私の母も 友人に誘われて行って

高額商品を買うように勧められ

「よう買い切らん」

と不安な気持ちで

最初は断っただろうが
結局買う羽目になったのだろう

それが押し入れの奥に未使用のまま

しまい込まれていたのだ


私はそれを見て

本当に母に 申し訳ない と思った

そばにいれば クーリングオフやらなにやら

対処してあげられたのに

また そもそもそんな会場には

行くこともなかっただろうに

と思うと 本当に

申し訳なく 思ったのだ



・・・



いま私たち夫婦は

二人きりの借家住まいだ

私たちも やがて この世を去る

「あなたその川を渡らないで」

という韓国ドキュメンタリー映画があったが

同時にこの世を去るということは難しい

どちらかが先に行って

どちらがかが一人残ることになるのだ


先日 私は帯状疱疹を発症した

今ではすっかり快復したが

今度は 妻が二度目の帯状疱疹かも~

というような発疹のようなものが出ている

これから先のことはわからない しかし

私たち夫婦は向こうの世界に行くときは

夫婦で同時 一緒に行きたいのだ


・・・


明日は 私の母の命日


歯肉がんで右頬がなくなり

食べるのも難儀するなか

ほかほかのたこ焼きを

タコだけ残して たこ焼きの

やわらかい部分だけを

おいしそうに食べていた

そんな母を思い出す

明日は ほかほかのたこ焼きを

祭壇に びわも お供えして

夫婦で 母を追慕するのだ

最大限の感謝 をこめて