NHK BS で再放送されている「はね駒」 今日は 主人公の将来のパートナーとなる 源造(演じるのは渡辺謙さん)が 素晴らしいことを言った それを端から聞き見た「はね駒」が 毛嫌いしていた 源造を 見直し始める場面だ 源造は 売った仏像を買い戻したく 買い取った「はね駒」の父に こう言うのだ 「やっと 私にも 分かってきたような気がする 自分というものは 何か もっと 人間の力を超えた 大きなものに 支えられているような気がする」 「はね駒」の主人公 おりん は 将来 自宅で日曜学校を開くほどの キリスト教信仰を持ったが ここから 「嫌い」 を超えて 結ばれていくようになるのだろう ドラマの展開が 楽しみでもある ・・・ おりんは 初めて見た源造を見るのもイヤ そばに居るのもイヤなくらい「毛嫌い」 していたが そもそも 「愛」とは何で 「好き」とは何か そのへんのところ 一所懸命 考察したい ・・・ ◇「愛」と「好き」は違う 「愛」とはすなわち「好き」ということ? 「好き」ということは「愛」ということ? 「愛」と「好き」を取り違えてはいけない ・・・ 離婚原因の多くが 決して 暴力や不倫 なのではなく 普通に性格が合わない とか 愛情が冷めた とかいう そのような声の方が 多い ただ 愛情が冷めた と言っても それが 本当に 愛 だったのか それを掘り下げて 考えてみると 「愛」と「好き」を取り違えていることが 多分に見受けられるのだ 「好き」ということは 軽い感じで 至極 簡単に受け止められやすいが 「愛する」ということは 簡単なことではないし とても 難しいことである ◇「好きな」人と一緒に居たい 恋愛結婚が主流となった頃 多くの人が恋愛結婚に 憧れや理想を抱いた 好きな人と一緒に居られる そこに安心と喜びを見いだした しかし昔(前近代社会)は 恋愛結婚など許されてはいなかった ドラマ「おしん」でも「はね駒」でも 親が縁組みを決め 好きな人とは結婚できなかった 身分や階級の違いにより 結婚相手にも制約があり 自由に恋愛をし 自由に相手を好きになることはできなかった また好きな人がいても 好きな人と一緒になることは許されなかった そんな時代から考えてみたら 好きな人と一緒にいられる 好きな人と結婚できる それが 恋愛結婚に対する 憧れを呼び起こした そして2000年代には純愛ブームが到来した 邪心も打算もない 男女間の純粋な愛を謳歌した それが 現代では 過ぎ去り 恋愛に対して 若者たちは冷め始め 恋愛できない 恋愛しない 若者たち が増えたのであるが・・・ 2000年代の流行語にビカチュウならぬ 「セカチュウ」があった 「世界の中心で、愛を叫ぶ」(著:片山恭一) たったひとりの女性を愛し続け 病気になっても寄り添い続けた純愛の話だ この「セカチュウ」的な愛 純粋な愛が 若者たちの憧れのもとになった そして「冬のソナタ」も人気となり 「ヨン様」現象が日本で巻き起こった このような本当に純粋な たった一人の最初の初愛をずーっと 抱き続け お互いの為を思い合うような そういう愛 純粋な愛 というもの に憧れた しかし 実際には 現実の世界には見つけにくく それはドラマや映画の中でしかない こういう愛は現実離れじゃないか と 思われるようになった なぜなら 現実の世界には 「セカチュウ」的な愛より 「ジコチュウ」的な愛の方が多いからだ 自分本位の愛 が多く 実際に 恋愛の中に 純愛 お互いのことを思い合うような愛は 見いだしにくくなったのだ ◇「好き」という感情 「好き」というのは決して悪い感情ではない 誰かを好きになること 誰かに惹かれるということ は 実際には 素敵な感情であって 男女が惹かれ合うように そもそも 人間は創られているし本性でもある ただ 「好き」という感情が そのまま「愛」なのか というと おそらくそれは そうではないのだ では 「好き」という感情は何なのか たとえば 私は お好み焼きが「好き」だ 妻は 冷やし中華が「好き」だ 人によって「好き」な食べ物は 様々だ 今日の昼 私は「お好み焼き」 妻は「冷やし中華」を自分で作って食べた あれ食べたい これ着たい これ「好き」 人によって好みは違うのだ そして「好き」という感情は それが 物に向けられるにしても 人に向けられるとしても 誰にとって「好き」なのかと考えれば 当然 自分にとって という話になる 相手にとって という話ではない 自分にとっての「好き」であり「嫌い」 という話なのだ 要するに「好き」というのは 自分の満足 自分の気持ち 自分の気分 であって 「好き」という感情を抱くときに そのベクトルは 自分自身の気持ち に向いているのである 自分が満足できるかどうか 私が「好き」か「嫌い」かであって 私が満足できるかできないかが 「好き」という基準であり 「好き」というとき その基準は 自分自身にあるのであって 自分にベクトルが向いている感情なのだ 一方 「愛」とは 何か 自分にベクトルが向くのではなく 相手が 幸せであるか 相手が 喜んでいるか 相手が 満足しているか ベクトルの向いている方向が 自分ではなく 相手に これが「愛」なのである だから「愛」と「好き」は 動機 と 目的 が違う 「好き」は 自分の感情だが 「愛」は 相手の為に向けられた思いである このように 「好き」と「愛」は 動機と目的が違うのである ◇「好き」は受け身の姿勢 一目惚れで「好き」になる 一瞬で「好き」になる 私はそんな経験はないが 人によってはあるらしい では 一目惚れは 「愛」なのか 「愛」は 瞬時に生まれるのか 一瞬にしてその人に惚れたら それが「愛」だ と言えるのか 「好き」というとき 相手のどこが好きなのか ルックス? 学歴? 収入? 男らしさ? 人柄 人格 信念? いずれにしても 「好き」で惹かれるところは 相手の条件 なのだ 相手が持っている いい部分 に惹かれる 相手がもっている 良い部分 に惹かれる それも 人間に与えられている本性である 別段 非難されるべきことでもない そもそも人間には 真善美 に惹かれる本性がある 相手が持っている 真なる世界 相手が持っている 善なる世界 相手が持っている 美しい世界に惹かれる いずれにしても 相手の条件 に惹かれる それが「好き」という情況なのだ だから見方によっては「好き」というのは 相手の条件次第 で 左右されるし 相手の条件によって 変わることになる 美人だったら好き 醜く崩れたら嫌い そうだとしたら それは 永遠ではない あるいは 部分的なものに惹かれ 相手のこういう所は好き でも 全面的には受け入れられないとか 相手の状態 相手の部分とか 相手に条件を求めて 「好き」を追求していくと 相手の条件次第によって変わっていく という話になる そうなると 「好き」と「嫌い」が変わることは 至極自然な話である そして 「愛」も 相手の状態によって コロコロ変わるのであれば 永遠の愛 はあり得ないし 結婚も瞬時に変わり得るという話になる そもそも「愛」は 相手の状態によって 受け身的に変わっていくものではない 「愛」は 相手の状態がどうあろうと 今日は相手の体調が悪い 気分が悪い 情況が良くない 機嫌を悪くしている そんないろんな状態があったとしても 変わらず 私が 相手に与えようとする 関心を注ぎ 相手の為に投入する 相手に与えようとする 為に生きようとする その行為が 「愛」であって その愛の出発点は 「私」自身が 主体 であって 「私」からまず与える それが 「愛」 なのだ 「愛」は与えようとする行動である 好きだから愛する それは ありかも知れない しかし 好きだから愛する だけでは そこには おそらく 永遠性 はない 好きだから愛する以上に大切なことは 「愛するから好きになる」 ということなのだ 愛は不思議だ 投入すればするほど 愛は深みを増していく 私たち夫婦も今にして 愛に深みが増してきた 好きだから愛する は 受け身であって 愛するから好きになる のだ 誰かを愛そうとしたら 誰かの為に生きようとしたら 傷つくこともある 裏切られることもある 自分の思い通りにならないことも沢山ある でも 本当の意味で 愛する 与える 相手の為に生きる ということをしたことがない人は 本当の意味で 「愛」を知ることはできないだろう どんなに自分の中にいい状況 条件が あったとしても 受け手 待ちの姿勢では 愛は育たないのだ 多くの人から キャーキャー褒めそやされてきたとしても その人に愛が育っているのかと聞かれれば そうでもない人もいるのだ 本当に相手のために生きたり 投入したりすることを通して 初めて 相手に対する愛が育まれていくのである 「愛」は 瞬時に生まれるものではない もし一目惚れで「自分を好きだ」 と言ってきたら それはウソではないかもしれないが 一目見ただけで「あなたを愛している」 といったら それはウソでしょう! となる インスタント食品のように 瞬時にできあがるのが「愛」ではないのだ 愛は与えようとする行動であって 与えることを通して育まれる心情なのだ ◇「好き」は一時的感情 おとぎ話のエンディングは 大体においてこうである 「王子様とお姫様は 末永く幸せに 暮らしました とさ」 おしまい♪♪ このように誰もが愛の世界に願うのは 「永遠の愛」 である 愛の世界で「永遠」を願う では「好き」という世界に 永遠はあるのか 永遠を 保証できるのか できない話だ 「好き」は変わることもあるし 変わるものである そのときの状況 自分の気分 自分の成長によって いろいろ変わる それが「好み」というものだ 「好き」で結婚するとしたら 「好み」は変わるから 「好き」が「嫌い」になった 好きが好きじゃなくなった 嫌いになって別れることもある そこには何の「責任」もない ・・・ 今は 気分で結婚する時代 とも言われる だから 好きだから結婚して 好きじゃなくなったから別れる そのように気分で結婚したら おそらく 永遠の世界 永遠の結婚 はあり得ないし 結婚生活に 家庭生活に 「永遠」という言葉は使えない そこに「責任」は伴っていない 「愛」は「好き」と同じではない 「好き」は一時的な感情であり 「時」と「場合」によって変わる そこに「責任」は伴わない しかもその人を好きになることに 何ら「決意」も必要としない 相手に対するコミットメント 自分の思いの投入を必要としない 一方 「愛」は 永遠をかけた 「誓い」であり 時空を超えた 「二人の約束」であり 相手の為に生きていくという 「決意」 から出発する 愛するという「決意」と「誓い」 「愛」には「決意」と「誓い」が伴い そこから初めて 「永遠」という言葉が出てくるのだ ◇「結婚」は「愛」の誓い そして結婚は 好き嫌いでするものではなく 愛の誓い なのだ 好きだから結婚するのではなく 愛するから結婚するのだ 愛するために結婚するのだ ドイツの心理学者エーリッヒ・フロムは こう言い残した 「愛するというのは、単なる激しい感情など ではない。それは決意であり、決断であり、 そして約束なのだ。」 結婚式で 神父が新郎新婦に問う そして新郎新婦は「愛の誓い」をする 「この人を愛していきますか この人を愛する決意をしていますか」 「その健やかなるときも 病めるときも 喜びのときも 悲しみのときも 富めるときも 貧しいときも これを愛し これを敬い これを慰め これを助け その命ある限り 真心を 尽くすことを誓いますか」 これが結婚式での問いかけである 「愛とは相手の為に生きる決断」である すなわち 「結婚」とは 「自分の力を超えた大いなる存在の前に 変わらぬ愛を誓うこと」 なのである 変わりゆく人間同士の約束ではなく あの「はね駒」の源造が悟った 変わらない大いなる存在の前に 変わらない永遠の愛を誓う それが「結婚」なのだ 「結婚」とは 「愛の為に生きる決断」ダゾー!