~朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり~
これは『論語』里仁篇の言葉だ
人としての道を追求することの大切さを表わしている
わたしが献身したあと 後輩も献身してきた
経緯を聞くと 真理に出会ったから ということであった
真理
それは即ち、原理(Devine Principle)のことだ
原理(Devine Principle)を学ぶと 人が変わってしまう
世に言う 洗脳(?) されてしまうのだ
創世記を読み始めて おとぎ話のように思っていた内容が
おとぎ話ではないことが わかる
もっと深い内容があることが わかる
そして聖書六十六巻をわたしは 生まれて初めて
初めから終わりまで 読んだ 心が安定した
しかし今にして思うに
原理(Devine Principle)を学んだからと言って
真理に出会ったからと言って 聖書を読んだからと言って
それがすぐに 信仰に結びつくわけではない
わたしは頭でっかちの「原理坊や」でしかなかった
真理は 良心に癒やしをもたらし
その人の人生を 義なるもの 善なるものに導く ガイドをするものであり
信仰は ひとりよがりのものでは 決してない
ひとりよがりの信仰~それは独善的信仰であり
そして集団主義は
自分たち以外の他者を排除し 得てして
迫害は 共産主義の策謀
国家的迫害だ という虚偽宣伝を繰り返すことにより
同情と自己正当化を狙う戦術をとる
信徒に対して冷静な判断を失わせる
そして
自分たちで何でもできると過信させ
他人の忠告は受け入れない
それが今の今
旧統一教会(家庭連合)で起きていることである
確かに 人情より天情を優先せよ と教えられて
そんなことは 原理(Devine Principle)にはないのだけれども
上からの強烈なノルマ(人と金)を達成するために
時のリーダーたちが下の者たちに言ったのだけれども
また下々のカインの立場の者は 上のアベルの言うことに絶対服従と
時のリーダーたちが下の者たちに言ったのだけれども
それも 原理(Devine Principle)を用いて 巧に論理的に説明するものだから
下の者たちは 疑問も持たずに
天情にたって 平気で嘘をつき 人情を切り
またこの世の規則は サタン世界の規則だから やぶってもいいのだと
そのようなマインドセットが
旧統一教会に存在したのは 事実 今もそのままだ
その報いを
今の今
それは時宜に適ったことでもあるのだけれども
報いを受けているのだ と思う
***
実家に帰省する前に
教会で事前に講義があった
それは
親に関する講義だった
黒板に 四位基台の図を書いて
肉親の親は 原理的立場で見るとサタン側にあり
神さまの下に来て出発する為には まず
そのサタン側の親から一端は決別しないといけない
人情の前に天情
という説明だ
このときの板書は
講師の姿とともに
しっかりと頭に刻まれ 今も残る
わたしは 親がサタンだ などは思わなかったが
新しく出発する為には 必要 と理解し
親から許可を得るために 帰省したのだ
帰省にあたり
ぶん殴られるのは当然だな と覚悟していた
***
わたしは 急に帰省した
そして世界情勢のことや 神さまのことなど話し出したものだから
親は どうしたんだ?
○○は狂った
と ただ驚いた そして嘆いた
父は 事の状況が飲み込めなかった
それもそうだ 普通に大学で学業に励んでいると思っていたのに
出家する などと言い出したのだから わけがわからない
まさに青天の霹靂だった
話は通じないまま 私は翌朝 教会へと戻っていった
とにかく 献身すると 言い残して
父はぶん殴ることは なかった
父とのやりとりを 母は ふすまのかげで聞いていた
そして 静かに泣いていた 母は母で心を痛めていた
その忍び泣く声は
わたしの耳元に今も残っている
…つづく

